東日本大震災10年の軌跡
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記憶と経験を次代に継ぐ滑走路をわずか1日で整備2011年3月11日15時57分、地元の放送局が東北の空の玄関口である仙台空港が津波に襲われたことを伝えた。大量の流木や車両、土砂が流れ込み、滑走路を覆い尽くして、ターミナルビルや管制塔ほかの施設、設備を破壊した。238ヘクタールの空港敷地内に堆積した瓦礫の総量は後に約3万6,000立方メートルと判明した。復旧には半年以上の期間が必要と思われる壊滅的な被害だった。しかし、約1カ月後、仙台空港は奇跡的な速さで再開した。それを可能にしたのが在日米軍と自衛隊との連携による被災地支援活動「トモダチ作戦」だった。作戦開始に先立っては、米軍機が着陸できるように滑走路の瓦礫撤去を急ぐ必要があった。14日の夕方、国土交通省から連絡があり、滑走路の維持管理を担っていた前田道路株式会社が3,000メートル滑走路の半分、1,500メートル分の整備に当たることになった。米軍の到着予定は2日後の16日。わずか1日での作業だった。その後、同社は「トモダチ作戦」にも協力し、仙台空港の復興に力を発揮した。仙台空港の復旧、「トモダチ作戦」成功の背景には、米軍、自衛隊に加え、民間会社の働きがあったこともまた忘れてはならない。「被災地復興のシンボルに」を胸に24時間体制で作戦を遂行3月16日、復旧を終えたばかりの滑走路に隊員と重機、燃料などを搭載した米軍機が着陸し、「トモダチ作戦」が始まった。使用可能な滑走路は一部で、管制塔も機能していない中、先に自衛隊の松島基地を経由し、陸路で仙台空港に到着した部隊による臨時管制下での、まさに命がけの着陸だった。敷地内に散乱する車両はフォークリフトで1台ずつトラックに載せて排除し、その数は2,000台以上に及んだ。瓦礫は大型のブルドーザーで撤去。隊員は駐車場などに野営、ターミナルビル2階の簡易ベッドで休息を取りながら、24時間態勢で作戦を遂行した。自衛隊や空港関係者との間で毎朝開かれた調整会議において、米軍は「仙台空港を被災地復興のシンボルに」の言葉を繰り返し、日本側のメンバーはその言葉に励まされたという。数日後には大型輸送機が離着陸できるまで整備が進み、仙台空港は被災地支援の空輸拠点として機能するまで復旧した。3月29日には滑走路・滑走路灯火等が整備されて3,000メートル滑走路が夜間も使用可能となり(救援機のみ)、3月31日には非常用管制塔で情報提供業務が開始された。第5章仙台空港の復旧 ~被災地復興のシンボルに~3月15日滑走路500m運用再開ヘリコプター4機の駐機スペース確保3月16日滑走路1,500m暫定使用開始米軍輸送機着陸3月17日交通情報等一部の航空保安業務の提供開始3月18日救援物資輸送として米軍輸送機着陸開始3月22日交通情報等一部の航空保安業務の提供を24時間に延長3月25日航空保安無線施設(仙台VOR/DME)運用再開3月29日滑走路および滑走路灯火等の復旧により夜間を含む3,000m滑走路の使用が可能に(救援機のみ)3月31日非常用管制塔で情報提供業務開始4月10日仮設場周柵設置完了4月13日民間旅客機運航再開■仙台空港復旧の経過日米の絆を再認識した「トモダチ作戦」161

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